口どけ

 

                      (画像はパリに居た頃の写真です。本文と直接の関係はありません。)


口どけはフランス菓子にとって(フランス料理にとっても)好みに関わらず特に重要であり、一大特徴とも言える要素です。それなのに、私たち日本人には今ひとつ理解しにくい感覚のようにも思われます()ので、この口どけについて考えてみたいと思います。

 

口どけには大きく分けて2種類あります。

ひとつにはバターやチョコレート、ホイップクリームなどが口中で溶けて液状になっていく口どけがあります。こちらは誰にも分かりやすいことで特に説明は要らないでしょう。

これとは別にもうひとつ、クッキーやパウンドケーキなどの焼菓子やスポンジケーキを食べた時の口どけがあります。これは前者のようないわゆる物理学的な意味の「とける(溶解・融解)」ではありません。

この場合の口どけの良さとは口中で食べ物が咀嚼される際、固まりが細かく嚙み砕かれて、それが寄り集まって収縮するのではなく、拡散していく様を表します。団子になって飲み込みにくくなったり喉につかえたり、糊になって口蓋にベタベタと貼りついたりせずに、細かく拡散してすんなりと喉を通り過ぎていく様を表します。

この口どけが良いということが、実はフランス菓子にとって必須なことであり、重要な要件なのです。

その理由には二つ考えられます。 

ひとつには、食べ物は口中で溶けてはじめてその味と香りがよりよく感じられるということがあります。個人の好みに関わらず、概して口どけがいいと咀嚼中の食品の風味が特に香りの面においてより多く、より強く感じられます。食べ物の中に隠された真に深い味わいというものは(質の悪さも)口中でよく溶けることによって、その姿をあらわすものだと私は考えています。 

そしてもうひとつにはフランスの文化においては「口中調味」をしないということがあります。
口中調味とは白ご飯を口の中に入れたあとにおかずを入れて一緒に咀嚼しながら味を合わせるなどの食べ方で、日本独自の食べ方だと言われています。日本独自と言われるように、この食べ方はフランスだけでなくヨーロッパでは一般的にはされていないようです。
米を主食とするアジアでも、韓国ではご飯とおかずを混ぜて食べたり、中国ではご飯におかずを乗せて食べたりすることが多く、「口中調味」の食べ方は日本ほどはなされていないように思います。
もちろん、食べ方などは個人の自由ですし、それぞれの地域の文化であり、私たち日本人はそういう食べ方をするし、塩味のない白ご飯を主食とし、塩鮭や佃煮、漬物などのしょっぱいものをおかずとし、またおみそ汁などの汁物と一緒に食べる和食の食べ方としては理にかなっていますし、そういう文化ですから、これは良い悪いの問題ではありません。
「パンにソースをつけて口の中で合わせて味わうのも口中調味じゃないか」、あるいは「フランス料理でも、ワインを飲みながら食事をするじゃないか」と思われるかもしれませんが、口中調味というのはあくまでも口中に食べ物がある内に次の食べ物や飲み物を口に入れる食べ方を指します。辞書にある言葉ではありませんが、より正確を期すために私はこの「口中調味」の食べ方を「足し食べ」及び「足し飲み」と呼んでいます。

フランス料理の文化では基本的にはこの「足し食べ」「足し飲み」をしません。料理にもそれぞれに味がついています。メインの肉や魚にももちろん、付け合わせの野菜にもソースにもパンにもそれぞれに丁度いい味がついていて、それぞれ単独でも食べられるようにするのがフランス料理の基本です。そしてデザートやお菓子も同様に、必ずしも飲み物が必要ではないように口どけよく作られています。
その意味で、そんな意識は誰もしていないでしょうが、フランス料理は基本的には足し食べ・足し飲みを必要としないようにできているということができます。
Ça fond dans la bouche ! ”(サ・フォン・ダン・ラ・ブーシュ!)はよく耳にするほめ言葉です。『とろけるぅー』という感じでしょうか。
フランス料理ではポタージュやピューレやムース、また肉や魚の加工品でもパテやテリーヌ、リエットなど、口どけのいい料理が数多くあります。
野菜はとことん柔らかく火を通すことが多いですし、魚料理もふんわりと柔らかく仕上げるのが基本です。海老やイカ、貝類などもプリプリといった歯ごたえよりもむしろ柔らかく口どけよく仕上げることが求められます。煮込み料理などは広くヨーロッパの料理の基礎であるスープ料理の延長ととらえられます。
果物もほとんどがとろけるものですし、洋なしや柿もそうですし、りんごでさえも心地よい歯触りのあと、まるで洋なしのように溶けていくものが多くあります。パンもよくできたバゲットなどは皮がパリパリで固くても噛めばビスケットのように細かくくだけ、もちもちとした粘りや過度の弾力もなく、歯切れよく口どけもよいものとなっています。 

フランス料理の場ではもしパンとスープを一緒に味わいたかったらパンにスープを浸して食べます。パンと前菜のテリーヌやメインの付け合わせの野菜料理を一緒に味わいたかったら、パンにそれぞれを乗せて口に運びます。ワインを飲みながら食事をする時でも、口中の食べ物がなくなってしまってから、ナプキンで口をふき、しかるのちにワインを味わいます。ワイングラスをベタベタに汚すなどは避けたいこととされています。ワインでなく水でも同様です。 

そういうわけで足し食べ・足し飲みをしない文化では、口どけの悪い食べ物は料理であれお菓子であれ、飲み込みにくかったり、のどにつかえたり、あるいは糊になって口蓋に張りついたりして、かなり不快なことになってしまいます。 

この足し食べ・足し飲みをしないということと、冒頭で述べた「食べ物は口中で溶けてはじめてその味と香りがよりよく感じられる……」ということとの二つの理由から、フランス菓子は口どけが良くなければならない、飲み物を必要としない、飲み物が無くても快適に食べられるということが基本的な要件であり、口どけが良くなければフランス菓子ではない、フランス菓子としては失格であるといっても言い過ぎではないほど、「口どけ」は重要なことだと私は考えています。




食感とおいしさ


             (画像はパリに居た頃の写真です。本文と直接の関係はありません。)



Q:「おいしさとは食べ物の質のことであり、その本質は視覚、触覚、聴覚によっては判断できない、それは味覚・嗅覚によってのみ判断できる」ということですが、それでは、食感は重要ではないということですか?私たち日本人は「ふわふわ」、「しっとり」といった食感にとてもこだわっていると思うのですが。

 

A:触覚による食感(触感)も食べ物の味わいの中でもちろん重要です。特に私たち日本人は昨今は味や香りよりもむしろ見た目と食感を重要視しているように思えます。ですが、食感はほとんどすべてと言っていいくらい個人の好みの問題であり、そのもののおいしさを(品質を)決定づけるものではない、客観性はほとんどない、と私は考えています。

前稿「おいしいお菓子を作るには(2)」で牛肉やクッキー、スポンジケーキの例をあげましたが、分かりやすい例として「柿」と「黒豆の煮物」をあげてみましょう。 

柿は一般的にはカリカリと歯ごたえのいいものが好まれているようですが、フランスなどではスプーンですくって食べるくらい柔らかく熟しているのが好まれます。日本でもそうした柿を好む人は少なからずいます。でも固いからおいしい柿であるとか、いや柔らかいからおいしい柿であるとかいうことはできません。それはあくまでも個人の好みの問題であって、その柿の品質の良し悪しの問題ではないということです。

お節料理の定番の黒豆の煮物は関西地方では表面にシワがなくふっくらと柔らかく煮あげるのがいいとされていますが、関東や九州ではあえてシワシワにし、歯ごたえがあるように煮上げることが多いです。これはどちらがおいしいということではなく、固いか柔らかいかの食感の問題はあくまでもその地域の人々のあるいは個人の習慣や好みによるものです。固いか柔らかいかが「黒豆の煮物」のおいしさを決定づけるものではないということです。

黒豆の煮物のおいしさは、材料である黒豆や砂糖、あるいは塩などがいい品質のものであり、ちゃんと火が通っていて、それらのことが食べた時に味覚・嗅覚で感じ取られるものであることだと言うことができます。 

食感はほとんどすべてと言っていいくらい個人の好みの問題だと言いましたが、フランス菓子、フランス料理に限っていえば、唯一必須といっていいくらい重要なものがあります。それは「口どけ」です。食感の中で口どけはフランス菓子にとって(フランス料理にとっても)好みに関わらず特に重要であり、一大特徴とも言える要素です。それなのに、私たち日本人には今ひとつ理解しにくい感覚のようにも思われます()ので、次回はこの口どけについて考えてみたいと思います。

 

おいしいお菓子を作るには(4)


              



本当においしいお菓子を作りたいと思ったら、そのお菓子の本質を充分に理解する必要があります。

たとえばおいしいマカロンを作りたいと思ったら、まずアーモンド、卵白、砂糖など、使われている一つ一つの材料の特徴、性質、その役割、またそのおいしさを理解していなければなりません。また、それらがどのように調理され組み立てられているか、その構造を余すところなく理解していなければなりません。そして何よりも、マカロンというお菓子のおいしさというものの本質を理解する必要があります。いったいどうできたマカロンがおいしいマカロンなのか、いったいマカロンのおいしさとは何なのだ、ということを、その本質をつかみとらなければならない、そうでなければ真っ当な判断力は身につかないでしょう。

しつこいようですが、そこに個人の「好み」がはいりこむ余地はありません。好みを排して物に向かい合うことが求められます。 

おいしさの本質をつかみとり、判断力を身につけるためには、とにかく食べて食べて食べまくるしかありません。音楽であれば聴く、絵画であれば見る、食べ物であれば食べる、ただひたすら聴く、見る、食べる、それしかありません。出来立てのマカロンも食べる、時間をおいた、あるいは日にちの経ったものも食べる、常温で食べる、冷蔵状態で食べる、空腹の時に食べる、満腹の時に食べる、食べては作り作っては食べる、成功したものも失敗したものも食べる、人の作ったものも色々と食べる、そうした経験をたくさん積むことでしかそのおいしさの本質はつかむことができません。 

それだけではなく、このマカロンという素晴らしいお菓子を生み出した文化にも理解が必要です。あるいは少なくとも興味を持つことが必要です。フランスの食文化、ひいてはそれを生み出したフランスの文化、マカロンというお菓子がいつどこでどう食べられているか、彼らが何をどう考え、どんな生活をしているかといったことも知っておく必要があります。 

考えてもみましょう。フランス人が和菓子を学んでフランスで和菓子の店を出したり、あるいは和菓子を教える教室を始めたとして、その人が日本の食文化、言葉、生活習慣、ものの考え方等、日本の文化をほとんど知らない、日本語も話せないし、日本語で書かれた和菓子の本も読めないとしたら、そんな人を信用できるでしょうか?その人が本当においしい和菓子を作ることができると思えるでしょうか?日本人であれば、これらはほとんど当たり前に身につけている事柄でしょう。 

料理は文化、お菓子も文化です。フランス料理もフランス菓子もフランス文化の文脈で把握されるべきものです。おいしいお菓子を作るためにはひとつのお菓子のレシピによる作り方だけではなく、ひとつひとつの材料のこと、そしてそのお菓子を生み出した文化、すなわちフランス菓子であるならば、フランスの食文化は言うまでもなく、フランスの言葉、人々の生活習慣、思想・哲学も含めたフランスの文化全体についての理解と知識が必要とされる、そうでなければ本当においしいフランス菓子を作ることはできない、と私自身は考えています。まぁ大層なことだと思われるかもしれませんが、フランスでお菓子作りを意識的におこなっている人なら、プロであろうと一般の人であろうと誰しも特に意識しなくとも当たり前に身につけていることですから、これは持つべき基本的な素養だと私は思います。



おいしいお菓子を作るには(3)


                      



ではどうしたら、おいしさを分かる、おいしさを判断できる力を身につけることができるでしょうか。

それには味覚・嗅覚を育てる必要があります。
味覚・嗅覚は育てるものであり、育つものであるという認識が必要です。美術品を見る力は視力とは違います。音楽を聴く力は聴力とは異なります。味覚・嗅覚による判断力も同様です。それらは訓練によって感覚を育てることで得られるようになります。感覚を育てるということは持って生まれたそれら感覚器官を鋭敏にするということだけではなくて、むしろその感覚器官に携わる脳の領域を広げ育て、ブラッシュアップしていくことと考えられます。

そのためにはとにかく経験を増やすこと、それら感覚器官を意識的に刺激し続けていくことが求められます。骨董品を見る力を養うには、いいものをただただたくさん見ることだと言われます。絵画を見る力も同様だと思います。音楽を聴く耳を養うにもいい演奏をただただたくさん聞くしかないでしょう。味覚・嗅覚で言うならば、ただただ意識的に食べ続けていくしかありません。

色々なものをたくさん味わっていくしかありません。それも他のことを考えながらとか、ただ漫然と食べるのではなく、集中して意識的に味わうことです。
「量は質を凌駕する」という言葉があります。たくさんたくさん意識的に味わっていく内に次第にいいものを選びとる力ができていきます。いいものを選びとる力ができていけば、それによって味覚・嗅覚が育っていきます。味覚・嗅覚が育っていけば、いいものを選びとる力がさらに確かなものとなっていきます。そううやって好循環が生まれていきます。

そうした経験を積む時に忘れてはならないことは、「好みで判断しない」ということです。
好みは変わりますし、変えられます。好みは絶対的なものではありません。嫌いだったり食べられなかったりしたものが大好きになったりする経験は誰しもあることでしょう。自分の好き嫌いというものが厳としてあり、その時点の自分の好みに合うか合わないかだけで食べ物を味わっていては、味覚・嗅覚の発達はその時点でストップしたままです。自分の好みばかりに囚われていては味覚・嗅覚の発達はおぼつかないし、未だ知らないより大きな喜びの世界を知ることができないことになります。それはあまりにもったいないという気がします。
甘いものが苦手なら甘いものの良し悪しは分からないでしょう。しょっぱいものが嫌いなら、しょっぱいものの良し悪しは分からないでしょう。酸っぱいもの、苦いものでも同じことが言えます。匂いの強いチーズや果物が苦手なら、その良し悪しは分からないでしょう。

好みを排して、あるいは脇に置いておいて、ただ味わう、食べ物によって自分の味覚・嗅覚を育てていくという気持ちでただ味わうことです。見た目や情報や好みなど何物にもとらわれずに、今口の中にあるその食べ物に向き合って、その食べ物からのメッセージを受け取る経験を積むことによって味覚・嗅覚が育ち、おいしさを判断できる力が身についていきます。そうして、質のいいものをおいしいと思え、質の悪いものをおいしくないと思える味覚・嗅覚を育てていくことが何より肝要です。

食べ物の食べ方とか好き嫌いとか個人の勝手じゃないか?その通りだと思います。しかしながら、味覚・嗅覚が育っていなく質のいいものを選びとる力がなければ、質のいいものはどんどんなくなっていき、味わいの乏しいものばかりが大量に出回っていくことになります。質のいいものを選びたくても選べなくなってしまいます。質のいいものがなくなっていけば、味覚・嗅覚はさらに衰えていきます。味覚・嗅覚が衰えていけば……。悪循環は今現実のものとなっています。


「おいしいお菓子を作るには」、本物の材料を選び、出来上がったものを的確に判断できる味覚・嗅覚を育てることが必要です。質の悪い材料からおいしいお菓子が出来ることはあり得ません。材料さえ良ければ思っていたものと少々違ったものができたとしても、それなりにおいしく食べれるものです。作り方のノウハウとかテクニックなぞは本当に二の次なのです。ものつくりは結局のところ、ただひたすら作り続けるしかありません。作り続けているうちに、適切なレシピや作り方も選択でき、またテクニックも身についてくるようになるものです。

食材の命が持つ力こそがおいしさの元なのです。


おいしいお菓子を作るには(2)





「おいしさ」とは何か、についてもう少し考えてみましょう。

 「おいしさとは味覚だけではなく、視覚、触覚、聴覚、嗅覚の五感すべてで感じる総合的な感覚のことである。」とはよく言われます。いかにも誰もが納得しそうな説明です。確かにその通りなのでしょう。が、しかしこの説明がおいしいものを作ることに、また、ものそのものの質を良くすることに役立つでしょうか。ひとつひとつ考えてみましょう。 

視覚によるものでは、見た目においしそうということが重要だと言われますが、見た目においしそうだったものがおいしくなくてがっかりしたとか、あまりおいしそうに見えなかったがとてもおいしかったとかという経験は誰しもあるでしょう。果物や野菜が鮮やかなきれいな色だからといって、その内実がおいしいものだとは限りません。お菓子がその色と形が素晴らしいものであっても、味がよくないということはいくらでもあります。現今はむしろそういうもののほうが多いとさえ言えます。

見た目が良くてもおいしくないものはあるし、見た目が悪くてもおいしいものはあります。見た目がおいしさを保証はしないのです。 

触覚によるものではどうでしょう。固いか柔らかいか、さくさくしているか、しっとりしているかなどの触感はもののおいしさを表すものでしょうか。牛肉のステーキなど、固くてもかむごとに肉汁の味が押しよせるような美味しい肉もあれば、柔らかくても脂っぽいだけの味わいに乏しい肉もあります。クッキーがさくさくしていてもおいしくないものはあるし、ソフトな触感のクッキーでもおいしいものはあるし、その逆もあります。スポンジケーキがしっとりしているか乾いた食感であるかはそのケーキのおいしさを決定づけるものではありません。

聴覚によるものではさらにはっきりしています。カリカリ、パリパリなどその音が心地よくてもおいしくないものはあります。 

では一方で、味覚と嗅覚によるものはどうでしょう。

はじめに断っておきますが、物を口の中に入れて味わう時には、私たちはそれを味覚による味と嗅覚による香りとに分けて別々に味わうことは普通しません。それはいつも同時に味わっています。私たちが「いい味だ」と思う時は常に「いい匂いだ」という意味を含んでいます。なので、ここでは味覚と嗅覚による味わいは一緒にして考えていくことにします。 

味覚・嗅覚によるもの、すなわち味と香りが良くておいしくないものはないし、味と香りが悪くておいしいものもあり得ません。味覚・嗅覚が正常であれば、目をおおい、耳をふさいでもおいしさは味わえます。そこが他の感覚によるものとは決定的に違います。風邪をひいた時のように味覚・嗅覚に障害が出た時、視覚、聴覚、触覚だけでおいしさを味わうことができるでしょうか?その逆に、視聴覚に障害があったら食べ物のおいしさを分からないと言えるでしょうか?視聴覚に障害があればむしろ味覚・嗅覚は健常な人より鋭敏になります。人の感覚は一部に不足があれば他の感覚でそれを補おうとするものだからです。 

味覚・嗅覚以外の他の感覚によるものは言わば枝葉であり、それに付随するものに過ぎません。味覚・嗅覚だけではない、五感すべてが大事であるという説明は、あくまでも味覚・嗅覚によるものが良しという前提にたっての説明でしかありません。その前提が、それこそが問題の中心、肝腎要なのです。

昨今は見た目と食感にこだわるあまり、肝腎の味覚・嗅覚をおろそかにし、その感覚を衰えさせているように思えます。味覚・嗅覚によるものだけが「おいしさ」を決定づける根本のものであり、そこを棚に上げておいて、見た目が大事も何もありません。 

「おいしさ」とは食べ物の質のことであり、その本質は視覚・触覚・聴覚によっては判断できません。それは味覚・嗅覚によってのみ判断されるものと言うことが出来ます。

ではどうしたら、「おいしさを分かる」、おいしさを判断できる力を身につけることができるでしょうか。

つづく。



おいしいお菓子を作るには(1)




「おいしいお菓子を作るにはどうしたらいいですか?何が必要ですか?」

そういう質問をこれまでたくさん受けてきました。お菓子に限らず、料理も含め、口にするものすべてにおいて、おいしいものを作るには、おいしさを作り出すためには何が必要なのか、何が大事なのかを考えてみましょう。

まず、何よりも大事なことは「おいしさを分かる」ということです。「あの人は味の分かる人だ」などという言い方を耳にすることがありますが、つまりそれは「おいしさが分かる」ということです。おいしさとは何か、何がおいしいか、何をもっておいしいとするのか、これが分からなければおいしいものを作ることは出来ません。作り方のノウハウや技術(テクニック)は二の次です。おいしさを理解せずにテクニックをいくら習熟させたところで、それはおいしくないものを作るテクニックをせっせと磨くだけのことにもなりかねません。

おいしいものを作るためには、まず良質な食材を選ばなければなりません。お菓子作りで言うなら、基本となる食材である、粉やバターや砂糖、卵、それからフルーツやナッツなど、どれが良質なものなのかを的確に判断し、選び取る必要があります。質の悪い材料から、おいしいお菓子ができることはあり得ませんから。

そうして良質な食材を選んだら、その材料に適切な手と時間をかけて、望んだおいしさを作り上げていくわけです。その時に最も必要なのが、このおいしさの理解、判断力、そして出来上がるものに対する確かな味(おいしさ)のイメージなのです。そうして出来上がったものに対して、これがいい、これでいいという確かな判断ができなければ、「おいしさ」そのものが分からない訳だから、おいしいものを作ることはできません。行く先が定まっていなければそこへ到達することはできない道理です。

「おいしさ」って何?

「おいしさなんて、人それぞれ好みがあるんだから、そんなもの決められないだろう?好きなものはおいしいものだし、嫌いなものはおいしくないものだろう?」

そうですね、多くの人は自分の好みで、自分の口に合うかどうかでおいしいかどうかを判断しています。では、自分かあるいは誰か特定の人の好みに合うことだけを目指してものを作れば、おいしいものが出来るのでしょうか?それぞれの食べ物には良し悪しはない、すべては人の好みが決めることだと言い切っていいのでしょうか?

人の好みはほんとうに様々です。たとえば、マドレーヌというお菓子があります。このお菓子を作って二人の人に食べさせたら、一人は甘すぎると言い、もう一人は丁度いい甘さだと言います。人の好みは本当に様々です。甘さの好みも感じ方も人によって違います。この二人を同時に満足させることは不可能なのです。さらに同じ人でも日によって時間帯によって感じ方が違うこともあります。同じものを食べても、ある日は甘すぎると感じ、別の日にはちょうどいい甘さだと感じることもあります。同じ人の好みも日によって異なることがあるということです。

好みに合わせて作ることができるのは、その人の食べ物の好みや生活習慣までも充分に知り尽くした、ある特定のひとり(自分自身を含めて)のためにだけということになります。その同じお菓子が別の人にとってもおいしいと思ってもらえる保証など全くありません。

おいしさは食べるほうの感覚の問題であるという考え方には、作る人の視点が欠けているように思えます。受け取る人、すなわち食べる人のほうの好みをいくら考えても、それでおいしいものが作れるようにはならないでしょう。

人の好みの傾向などを生理学的に、あるいは心理学的に研究することは意味のあることでしょう。たとえば食べ物でビジネスをしようとする場合などはそれは大いに役立つことでしょう。しかしそれが食べ物そのものの内容を、その質を良くすることにつながるとは思えません。人の好みの問題と食べ物そのものの質とは別のことだと考えるべきです。

では、おいしいものを作るには、いったいどうしたらいいのでしょう?

お菓子における砂糖の役割は甘さだけではありません。お菓子の構造を支えたり、他の材料の風味を引き出したり、水分をかかえこんでしっとり感を保ったり、、オーブンでの火の通りをよくしたり、ふくらみを支えて柔らかさを保ったり、かびや細菌の繁殖をおさえたり、などなど、たくさんの大きな役割があります。そのために、適切な配合というものが長い年月をかけて、また数えきれないほど多くの人々の試行錯誤を経て作られてきたのです。好みに合わないからといって安易に増やしたり減らしたり出来るものではないのです。

良質な食材を選ぶのに、そしてふさわしい分量や調理法を好みで選んでは間違ってしまいます。むしろ自分自身の好みにも誰かの好みにも左右されずに、それらを選びとる能力こそ求められるものです。

作り手にできることは、できる限り良質な材料を選び、適切な配合で、適切な手と時間をかけて、それぞれの材料の風味を生かし、マドレーヌならマドレーヌというお菓子として最良のものになるよう作りあげることだけです。そこに人の好みの入る余地はありません。そこに最も必要なのは好みを排して「おいしさ」を、すなわちそのものの質を判断できる力です。各材料に対して、そして出来上がったものに対して、これがいい、これでいいと的確に判断できる力です。その力の差がおいしいものを作れる、作れないの決定的な差となります。その力を身につけるにはまず第一段階として「おいしさを分かる」ことが何よりも大事なことなのです。

何も難しいことはありません。食べ物のおいしさとは個人的な好みとは関りなく有るものだということ、それは食べ物そのものの質(品質)に関わることであるということを理解しさえすればいいのですから。


「おいしさ」について、もう少し考えてみようと思います。

つづく。



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おいしさは時間がつくる




シェソア教室の生徒さんが先日飛騨高山にお店をオープンしました。パイとキッシュのお店です。

高山に伺った折に、会食中に美味しさとは何か、美味しいものを作るにはどうしたらいいかという話になりました。

おいしさって何?

食材の持つ成分から考えたり、あるいは人体の生理から考えたり、色んな切り口で考えることができますが、ひとつには、おいしさとは時間が作るものであるという話をしました。そうしたら、その言葉がずっと頭にあると言っておられました。 

時間をかけたから、時間をかけさえすればおいしいものが出来るとは言えませんが、かけるべき適切な時間をかけなければ、その時間を省いてはおいしいものはできないということは確かです。


まず、食材に関してです。

肉、野菜、果物、パン、チーズ、ワイン、あるいは調味料などの加工品などなど、おいしい食材ができるのには時間がかります。手間ひまを省いたもの、促成に栽培されたもの、促成に飼育されたものはやっぱりおいしくありません。料理にしても時間をかけずささっとできて、かつおいしいものもありますが、それはやはり元の食材が丁寧に時間をかけて作られたものである時だけのように思います。

促成栽培で味も香りも乏しく、水っぽいだけのサラダ菜やトマト、キュウリに市販のドレッシングをかけただけのサラダがおいしいものになることなどまずありません。丁寧に時間をかけて作られた野菜なら、塩をかけるだけでもおいしく食べられます。 

肉の煮込みなど時間がかかる料理にしても、圧力鍋、電子レンジなど使っても、確かに時間は短縮できても味をおいしくすることはないと思います。風味を保ったまま固い肉が柔らかくなり、他の味がしみこんでおいしくなるには時間が必要なのです。

パンやワインなど発酵食品にいたっては、時間がすなわちおいしさであるといってもいいくらいです。 

かけるべき時間を短縮し効率優先で作られたものは風味が希薄です。希薄な味をごまかすためには、塩、砂糖、油脂、発酵調味料などをたっぷり使って、味付けで食べさせることになります。それがまさに食品産業の工業的なものつくりです。ほんもののおいしさとは遠く離れたものでしかありません。 

お菓子作りも全く同じです。効率優先で作られた食材を使い、必要な工程を省いて短時間に作ってもおいしいお菓子ができることはありえません。

ものつくりは人のほうの都合ではなく、物の都合に人が合わせる、物のほうが育つ時間を作ってあげなければならない、その時間を省くことはできないと思うのです。 


それから次に作る人のほうに関してです。

おいしいものを作るためには、まず美味しい食材を選び、そしてこれから作るものの味を的確にイメージし、またできたものを判断することができる味覚を育てなければなりません。そしてそれを実現させるための技量を身につけなければなりません。 

味覚を育てるのには時間がかかります。小手先のテクニックを身につけるだけなら集中的に練習することもできますし、見かけの色や形を整えるだけのテクニックならたいした時間はかかりませんが、食材を味わい、できたものを味わって的確に判断できる味覚を育てていくにはとてつもなく長い時間がかかります。

そして自分の手でおいしいものを作り出す技量を身につけるのにも長い時間が必要です。ものつくりは結局のところ絶え間なくただひたすら作り続けるしかないからです。作っては食べ、食べては作り、失敗もしながら、食材の変化や環境の変化に合わせ、細かな調整と工夫をしながら、長い時間をかけて身につけていくしかないのです。その時間を省いては、おいしさを作り出す力はできません。 

無駄な手間ひまは省かなければならないかもしれませんが(無駄も結構貴重なことがありますが)、時間短縮、効率化、省力化といったことは、少なくとも料理やお菓子作りにとってはほとんどの場合その品質を(味を)損ねることにつながる、おいしさとは時間が作り出すもの、時間こそが大事なのだ、と私は思います。

 

冒頭の高山のお店はパイとキッシュのお店としてオープンされました。そのパイ生地をここまで手作りに徹して作られる方はそうはないと思います。量的な問題から商売につなげることがなかなか困難だと思われるからです。そのことに果敢に挑戦しておられます。エールを送りたいと思います。

お近くの方、飛騨高山に立ち寄られる方、是非訪ねてみてください。素敵なお店です。Elleys Kitchen