ムッシュー・ポネとのインタヴュー⑶




ムッシュー・ポネとのインタヴュー⑵のつづきです。


-話は変わりますが、日本人はよくフランスのお菓子は甘過ぎる、しつこ過ぎると言いますが、それについてはどう思いますか?
-数十年前までは、私たちは冷蔵庫や冷凍庫を使って仕事をすることができませんでした。お菓子の場合には、冷蔵庫・冷凍庫などが無かった時代の自然の保存材料は、それは砂糖だったのです。つまり、砂糖の量が品質を保証することになっていたのです。その時代のすべての良い配合・作り方は常に非常に砂糖の分量が多かったわけです。それはいまだにフランスでは、たとえばアイスクリームの中に見いだされます。私たちは食物に関する法律を改正したにも関わらず、まだかなりの部分で砂糖の量を減らせないことを義務付けられています。しかしながら、少しずつ私たちもより砂糖の量の少ない菓子を作るようになると私は思っています。そして、人体組織にとって、現在ある物よりもより良い砂糖の研究開発も考えています。
-そうですね、お菓子の場合には常にカロリーやコレステロールの問題がつきまといますね。
-えぇ、ですが、カロリーやコレステロールなどの問題では、お菓子にだけ罪があるわけではないのです。アペリティフをとり、オードブルもメインもたらふく食べて、その後にお菓子ということになると、「いや、これは太るから」というふうになることは当たり前です。しかしながら、もちろん私たちはお菓子を何トンも食べなければいけないわけではないのです。必要なことは食事全体のバランスを考えるということです。それが大事なのです。
-そうですね。よく、太るからと言ってお菓子を敬遠するのに、ジュースやコーラをがぶ飲みしたり、サラダにマヨネーズをたっぷりとつけたりするのを見受けますね。
-今日、私たちの人体にとって悪い物が非常に多く出回っていると私は思います。確かに、バター、生クリームなどは適度にとらなければならないことは言うまでもないことですが、しかしながら、お菓子は常においしいものでなければなりません。私たちは低カロリー食品を作るためにお菓子を作っているわけではないのです。カロリーのより少ないお菓子を作るよう試みてはいるのですが、しかし、そのお菓子はおいしくなければなりません。もし、低カロリーにするために質を落としたりするならば、そんな物は全く作る必要などないのです。ヨーグルトでも食べていればいいわけです。

-普段はどんなものを食べていらっしゃるのですか?
-朝と昼は学校の食堂で食べ、夜はごく簡単にフルーツかヨーグルトなどで済まします。昼の食事はフルコースですし、仕事柄ほとんど一日中味見をしていなければならないからです。週末も比較的簡単な食事にしますが、人を招待する時は私の妻が腕をふるいます。それから、私の一人娘がアルザスの三ツ星レストランに嫁していますので、そこへ行く時は充分に食べて楽しみます。しかし残念ながら、ここからは600キロも離れています。

-最後に、この学校には何人の先生がいらっしゃいますか?
-今は6人です。ムッシュー・レイは一番昔からいますが、MOFというフランスの職人に与えられる最高の名誉をとった人です。それから、ムッシュー・ベルエ、料理を担当するムッシュー・タッシュ、そして、私の妻が店の飾りつけや店頭に出る人のためのコースを担当しています。一番若いブルンシュタインはチョコレートや飴細工などを担当しています。まだ22歳ですよ。(ムッシュー・ポネもMOFを取得していましたし、先生たちのほとんどが後にMOFを取得しています。)
-実力主義というわけですね。それができるということは大変素晴らしいことですね。私の国ではとても考えられません。ところで、日本へ行ったことはありますか?
-いえ、まだです。もうずいぶん以前から日本の学校の招待を受けていますが、今度料理のコースも作ることになって、その準備などにも忙しくて、なかなか行く時間がとれなくて困っています。それでもやっと81年の夏には行けそうです。その時にはまたお会いしましょう。
-えぇ、楽しみにしています。今日はお忙しいところを有り難うございました。

最後に一つだけ付け加えて、終わりにします。
実は、このムッシュー・ポネから、日本の製菓学校のグループが集中講義のためにやってくるので、通訳を頼まれたことがありました。通訳は別について来るけれど、その人はお菓子の専門家ではないから、私たちの意図が正確に伝わるかどうか心配してとのことでした。しかも同じような集中講義が前もって別の外国人グループのためにあるので、よりよく理解するために、それにも来てくれないかという念の入りようでした。それほど丁寧に仕事をしている人のあることに、いたく感心させられたことでした。



ムッシュー・ポネとのインタヴュー⑵



ムッシュー・ポネとのインタヴュー⑴のつづきです。


-菓子職人と学校の先生とでは違いがあるのでしょうか?
-はじめは、それは同じものです。菓子の学校の先生というものも、最初は菓子職人です。つまり、数学であれ、体育であれ、音楽や絵画であれ、すべての分野における教師と同じように、自分の分野を学ばなければなりません。しかしながら、教師というのはその上に、まず第一に、他の人に対して自分の知っていること、自分のできることを分け与える愛情が必要なのです。従って、人間心理に対する洞察力や忍耐心、我慢強さが必要となってきます。もちろん、自分自身の両の手を人に与えることは出来ませんが、それにもかかわらず、教える相手を自分と同じようにできるようにもっていくことを試みる力というものが必要です。それは必ずしもうまくいかないことが多いだけでなく、しばしば実現不可能なほどのこともあります。しかし、究極にはそれが教えるということの目的なのです。そしてそれだからこそ、重要なことは人間との接触を好む人でなければならないということです。仕事場で黙ってコツコツと仕事をして、それで充分幸せな人もたくさんいます。しかし、教師はそれではいけません。たとえば私は孤独が好きではありませんし、より多くの人間と接触できるほうが、私には満足なのです。
 
-話が変わりますが、この学校の創設の目的は何なのですか?
-この学校は、基本となる材料の質というものがいかに大事で、また、その質を保つことがいかに必要なことであるかということを、人々に理解させるために作られたのです。といいますのは、人々は私たちの周りに出回ってきた、より質の悪い材料を使って、より安易な仕事をするように段々なってきたからです。確かに、それらの新しい材料を使えば比較的容易に利益をあげることができますが、結果として、決してより良い質のものを作り上げることにはなっていないからです。
-その考え方はルノートルの工場で、あるいは店で、成功をおさめているのでしょうか?
-ルノートルのメソッドというのは、先ほども言いましたように、質を落とさないということです。ルノートルは非常に大きくなりました。最初は12人から始めて、今や600人からいます。その根本原則を貫いて、ここまで大きくなったことは一つの成功と言っていいかと思います。私たちは今だに質を損じることなく、可能な限り合理的に仕事をする方法を守っています。たとえば、私たちは人間の手の代用として機械を使う場合にも、その機械を取り入れることが材料の質を、あるいは出来上がってくるお菓子の質を損じるようになることは避けています。それがルノートルのメソッドなのです。

-大きな店の問題点は何なのでしょうか?
-あぁ、それはとてもいい質問です。小さな店しかなかった時代には、大部分の場合、店のすぐ裏に主人がいて、そこでパンやお菓子を作っていました。そして女主人が店に出て、販売や会計を、あるいは注文を引き受けたりして、客との接触をしていました。大きな店では、たとえば売り場をいくつも持つようになると、主人が、あるいは女主人がいつもそこにいるというわけにはいかなくなります。なぜこういうことを言うかといいますと、客というものは、主人、あるいは女主人がその知っていることを客に対してアドバイスしてくれることを欲しているからです。それは人間関係の問題です。いったん人間関係ができると、客はその店に行くほどに、またその店に来るようになります。
超大型店舗、スーパーマーケットなどというものは、この人間関係というものを全く破壊してしまっています。客は物を買いに行き、誰とも話をせず、物をとって見、支払い場に行き、勘定を払って出ていく。そこには対話、会話というものがありません。客は自分の買ったものについてすらそれが何だか充分に知らないでいます。そこには会話が欠けているからです。
そういう場所では、もしかしたら少し安く物を買えるかもしれません。しかし、人間性を持った人間というものは会話を必要とするものです。家を出ても話をせず、スーパーマーケットで黙って物を買い、家に帰ったらテレビの前で休む。一方的に話をするのはテレビの中の他人です。パートナー、子供、家族と話をすることもない。こういうふうに、もう会話というものがほとんどなくなっているわけです。こういう日常的な小さな事どもの中にも、大きなことと思えることよりずっと大事なことが含まれていることがあると、私は思います。
 
-アメリカのような産業的・工業的メソッドをどう思いますか?
-すべてのメソッドというものは決して悪いわけではないのです。消費者が何を要求するかに適応させなければならないからです。しかし、アメリカのメソッドというものはフランスでは成功していないようですね。繰り返しになりますが、アメリカのメソッドというものは、いわば前出のスーパーマーケットと同じことです。人間関係というものを抜きにしてやっているのです。彼らも可能な限りいいものを作るようにしてはいるのでしょうが、結局のところ、やはりそれは金を多く早く稼ぐためのもので、ただそれだけなのです。
-ルノートルのメソッドというのは、そうではないのですね。
-そうではありません。それは職人のメソッドです。職人というのは全く反対で、もしかしたら利益を得るのにより時間がかかるかもしれません。もしかしたら、よりやりにくいことがあるかもしれません。しかし職人はより社会に参加することになります。客を知り、客の好みを知り、客の習慣や生活を知っています。そしてこれらのことは、産業化のメソッドでは問題とされないことなのです。そこでは何かを作り出すけれど、その物がどこへ行くかさえ知らないでいるというわけです。

(つづく)


ムッシュー・ポネとのインタヴュー⑴

 




古い資料を整理していましたら、拙著「マイウェイフランス料理」の執筆の準備をしていた時の原稿が出てきました。私のこの45年間のものつくりと教える仕事の原点となっているものと思えましたのでいくつか掲載します。実際に出版された本では、紙数の制約や出版社の意向もあり、これが随分縮小されたものとなっていますが・・・。 
まずは当時のルノートル製菓学校の校長ムッシュー・ポネとのインタヴューの内容です。今や多くのことが随分変わってしまいましたが、これは45年前のことです。
 
 
ルノートルはパリのあちこちにあり、東京にも店(ライセンス契約)がある、菓子だけでなくパンやチョコレート、氷菓、仕出し料理もやっている、今や大成功している企業体です。そして、ECOLE  LENOTRE(ルノートル学校)はその同じ所がやっているもので、いわゆるプロを相手とする製菓学校です。
パリからオートルートにのって南西へ約30分、ベルサイユを通り過ぎてしばらく行ったプレジールという町、森と畑の真っただ中に、ルノートルの工場に隣接して立っています。(現在はランジスに移転しています。)あまりの田舎なので車がないと大変です。授業が8時から始まるので、まだどの店も開いていない、パン屋の地下からの光がもれているだけの静かなパリから始発のバスに乗ってモンパルナスの駅へ行き、列車に乗って約25分、それからまたバスに乗り替えていかなければなりません。バスの到着の時間も正確ではありませんし、一度に何台も来て、しかも行く先も表示していないことも多く、一台一台聞いて回らなければならないはめとなります。それも一時間に一本しか運行していなく、不便なことこの上もありません。初めて行った日には「これはまた随分と厳しい入学試験だなぁ・・・」とつぶやいたことでした。
話が少しそれてしまいましたが、この、フランス中からお菓子のプロが、既に名をなしているような人までも含めて集まる学校というものが、これだけの成功をおさめているお菓子屋の頭脳ともなっている学校というものがどんなものなのか、教える仕事をめざしている私にとって非常に興味がありましたし、私がここのコースをいくつか受講したこともあり、また、日本から受講に来る団体の為に頼まれて通訳兼アシスタントをしたこともあって、ある日、この学校の校長であるムッシュー・ポネと話をする機会をもつことができました。 
以下はその時の会話です。

 
-この学校はいつできたのですか?
1970年ですが、生徒を募集し始めたのは1971年になってからです。
-準備に1年かけたというわけですか?
-えぇ、そうです。その間、私たちは全ての資料を点検し、必要なレシピの整理や記録などの準備をしました。そうして、ルノートルのメソッドに従って、この学校を組織しました。
-つまり、あなたは創設以来ここにいらっしゃるわけですか?
-えぇ、もちろん、この学校を起こしたのは私ですから。ムッシュー・ルノートルが資金を提供してくれたのです。
-どういう生徒を募集しているのですか?
-職業としてこの仕事に従事している人たちを優先的に受け入れています。ですが、菓子職人だけでなく、料理人、その他食に関する職業を持つ人達すべての為に、この学校は開かれています。
-外国人も受け入れていますか?
-えぇ、もちろんです。この学校がどんどん知られるようになるに従って、外国人も段々増えてきています。
-生徒数はどれくらいなのですか?
-私の学校には、いわゆるお菓子のクラス、アイスクリームやシャーベットなどの氷菓のクラス、飴やキャラメル、チョコレートなどのクラス、デコレーションや店の飾りのクラス、それから今度新たに開設される料理のクラスと、合計5クラスあります。それで最終的には、一週当たり4555人の生徒を受け入れることができます。というのは、私は一クラス一人の先生につき10人以上の生徒を配置したくないからです。
-えっ、どうしてですか?
-えぇ、本当に内容を充実させて生徒にとって意義のあるコースにし、また、先生に必要以上の負担を与えない為には、一クラス10人くらいが最も適当だと思えるからです。それ以上にしますと、経営上は楽かもしれませんが、生徒からも先生からも不満が出てくるようになるでしょうし、結局は経営を悪化させることになると考えるのです。
生徒数は、ここ5年間を例にとれば、75年は150人、76年は190人、77年は323人、78年は511人、79年は700人、80年は950人に、そして81年は1,1501,180人になるでしょう。
-わずかの生徒数から始めて着実にふえてきているのですね。これは当初からの予定でしたか?
-えぇ、その通りです。先ほど言いましたように、一週当たり55人を最大数として、150週とすれば、2,750人を受け入れることができるわけですが、もちろん、この計算通りにはいきません。というのは、クリスマスや新年や復活祭の祭日、そして78月のヴァカンスがあって、その期間には来る生徒は少なくなりますし、また、先生たちもヴァカンスをとりますから、クラスの数が必然的に少なくなってくるからです。私としては、年間1,2001,400人の生徒が集まれば大いに満足というところです。
 
ここで私は、ムッシュー・ポネの個人的なことへと話題を変えてみました。
-ポネさんはスイスからいらしたと聞きましたが?
-えぇ、私はパリに生まれたのですが、スイスの製菓学校に20年間、先生として働きました。
-例の有名なコバ製菓学校ですね?
-えぇ、そうです。この学校にも多くの日本人が来ていましたので、日本でもよく知られていることだと思います。
-その前はフランスで仕事をしていらしたのですか?
-えぇ、8年間お菓子屋で働いたあと、スイスに行きました。
-どうやって菓子職人になるに至ったのですか?
-私も他の大部分のフランス人のケースと同じように、家の仕事を引き継いだのです。というのは、私の祖父がパン及びお菓子の職人でして、その祖父には7人娘がいて、そのうち5人が菓子職人に嫁ぎ、その息子たちの内5人がやはり同じ仕事を選んだというわけです。しかし、私はもともと菓子職人になるつもりはなかったのです。
-えっ、本当ですか?
-えぇ、私は実は音楽と絵画の先生になりたいと思っていました。まぁ、教えるという仕事に魅力を感じていたことに変わりはないのですが。戦争があって、私の兄も戦争で亡くなったり、不幸が重なって、私は働かなければならなくなり、音楽と絵画の先生になる為の勉強を続けることができなくなり、それでお菓子屋に入ったというわけです。
ところが、私は絵の勉強をしていましたから、お菓子でも、デコレーションの分野に非常に興味を持ち、その面で、すんなりと上達することができました。1952年、私が28歳の時に、ホワイトチョコレートで作った作品をコンクールに出品しまして、その時にそれを認めてくれた審査員の一人、スイスのコバ製菓学校の校長と出会ったというわけです。それから、彼の招きを受けて、その学校でデコレーションと砂糖細工の先生から始めたのです。
 
-この仕事をどう思いますか?
-個人的にはとてもいい仕事だと思っています。というのは、まず第一に創造的な仕事だからです。
作るという楽しみがあり、また、新しいものを創り出す可能性があります。それから、人々の生活の楽しみのひとつの作り手であり、提供者でありうるからです。つまり、毎日の食生活においてももちろんですが、パーティーだとか、誕生祝い、結婚式などを通しても、私たちは全ての家庭の喜びに参加できるのです。
また、この仕事を選ぶ若い人たちには、全世界を旅行するチャンスがその雇い主によって与えられるということも、一つの楽しみです。(国内外での研修勤務がプログラムに組み込まれていたのです。)それからもう一つ、自分で店を持てる可能性が大きいことがあげられます。ここフランスでは、作る男性と売る女性が必ず必要で、そのために商店業に従事する女性といっしょになって、店を持つことが多いということ、それは私たちの仕事の一つのメリットといってもいいかと思います。日本ではどういう仕組みになっているか存じませんが。
(つづく)