古い資料を整理していましたら、拙著「マイウェイフランス料理」の執筆の準備をしていた時の原稿が出てきました。私のこの45年間のものつくりと教える仕事の原点となっているものと思えましたのでいくつか掲載します。実際に出版された本では、紙数の制約や出版社の意向もあり、これが随分縮小されたものとなっていますが・・・。
まずは当時のルノートル製菓学校の校長ムッシュー・ポネとのインタヴューの内容です。今や多くのことが随分変わってしまいましたが、これは45年前のことです。
まずは当時のルノートル製菓学校の校長ムッシュー・ポネとのインタヴューの内容です。今や多くのことが随分変わってしまいましたが、これは45年前のことです。
ルノートルはパリのあちこちにあり、東京にも店(ライセンス契約)がある、菓子だけでなくパンやチョコレート、氷菓、仕出し料理もやっている、今や大成功している企業体です。そして、ECOLE LENOTRE(ルノートル学校)はその同じ所がやっているもので、いわゆるプロを相手とする製菓学校です。
パリからオートルートにのって南西へ約30分、ベルサイユを通り過ぎてしばらく行ったプレジールという町、森と畑の真っただ中に、ルノートルの工場に隣接して立っています。(現在はランジスに移転しています。)あまりの田舎なので車がないと大変です。授業が8時から始まるので、まだどの店も開いていない、パン屋の地下からの光がもれているだけの静かなパリから始発のバスに乗ってモンパルナスの駅へ行き、列車に乗って約25分、それからまたバスに乗り替えていかなければなりません。バスの到着の時間も正確ではありませんし、一度に何台も来て、しかも行く先も表示していないことも多く、一台一台聞いて回らなければならないはめとなります。それも一時間に一本しか運行していなく、不便なことこの上もありません。初めて行った日には「これはまた随分と厳しい入学試験だなぁ・・・」とつぶやいたことでした。
話が少しそれてしまいましたが、この、フランス中からお菓子のプロが、既に名をなしているような人までも含めて集まる学校というものが、これだけの成功をおさめているお菓子屋の頭脳ともなっている学校というものがどんなものなのか、教える仕事をめざしている私にとって非常に興味がありましたし、私がここのコースをいくつか受講したこともあり、また、日本から受講に来る団体の為に頼まれて通訳兼アシスタントをしたこともあって、ある日、この学校の校長であるムッシュー・ポネと話をする機会をもつことができました。
以下はその時の会話です。
-この学校はいつできたのですか?
-1970年ですが、生徒を募集し始めたのは1971年になってからです。
-準備に1年かけたというわけですか?
-えぇ、そうです。その間、私たちは全ての資料を点検し、必要なレシピの整理や記録などの準備をしました。そうして、ルノートルのメソッドに従って、この学校を組織しました。
-つまり、あなたは創設以来ここにいらっしゃるわけですか?
-えぇ、もちろん、この学校を起こしたのは私ですから。ムッシュー・ルノートルが資金を提供してくれたのです。
-どういう生徒を募集しているのですか?
-職業としてこの仕事に従事している人たちを優先的に受け入れています。ですが、菓子職人だけでなく、料理人、その他食に関する職業を持つ人達すべての為に、この学校は開かれています。
-外国人も受け入れていますか?
-えぇ、もちろんです。この学校がどんどん知られるようになるに従って、外国人も段々増えてきています。
-生徒数はどれくらいなのですか?
-私の学校には、いわゆるお菓子のクラス、アイスクリームやシャーベットなどの氷菓のクラス、飴やキャラメル、チョコレートなどのクラス、デコレーションや店の飾りのクラス、それから今度新たに開設される料理のクラスと、合計5クラスあります。それで最終的には、一週当たり45~55人の生徒を受け入れることができます。というのは、私は一クラス一人の先生につき10人以上の生徒を配置したくないからです。
-えっ、どうしてですか?
-えぇ、本当に内容を充実させて生徒にとって意義のあるコースにし、また、先生に必要以上の負担を与えない為には、一クラス10人くらいが最も適当だと思えるからです。それ以上にしますと、経営上は楽かもしれませんが、生徒からも先生からも不満が出てくるようになるでしょうし、結局は経営を悪化させることになると考えるのです。
生徒数は、ここ5年間を例にとれば、75年は150人、76年は190人、77年は323人、78年は511人、79年は700人、80年は950人に、そして81年は1,150~1,180人になるでしょう。
-わずかの生徒数から始めて着実にふえてきているのですね。これは当初からの予定でしたか?
-えぇ、その通りです。先ほど言いましたように、一週当たり55人を最大数として、1年50週とすれば、2,750人を受け入れることができるわけですが、もちろん、この計算通りにはいきません。というのは、クリスマスや新年や復活祭の祭日、そして7、8月のヴァカンスがあって、その期間には来る生徒は少なくなりますし、また、先生たちもヴァカンスをとりますから、クラスの数が必然的に少なくなってくるからです。私としては、年間1,200~1,400人の生徒が集まれば大いに満足というところです。
ここで私は、ムッシュー・ポネの個人的なことへと話題を変えてみました。
-ポネさんはスイスからいらしたと聞きましたが?
-えぇ、私はパリに生まれたのですが、スイスの製菓学校に20年間、先生として働きました。
-例の有名なコバ製菓学校ですね?
-えぇ、そうです。この学校にも多くの日本人が来ていましたので、日本でもよく知られていることだと思います。
-その前はフランスで仕事をしていらしたのですか?
-えぇ、8年間お菓子屋で働いたあと、スイスに行きました。
-どうやって菓子職人になるに至ったのですか?
-私も他の大部分のフランス人のケースと同じように、家の仕事を引き継いだのです。というのは、私の祖父がパン及びお菓子の職人でして、その祖父には7人娘がいて、そのうち5人が菓子職人に嫁ぎ、その息子たちの内5人がやはり同じ仕事を選んだというわけです。しかし、私はもともと菓子職人になるつもりはなかったのです。
-えっ、本当ですか?
-えぇ、私は実は音楽と絵画の先生になりたいと思っていました。まぁ、教えるという仕事に魅力を感じていたことに変わりはないのですが。戦争があって、私の兄も戦争で亡くなったり、不幸が重なって、私は働かなければならなくなり、音楽と絵画の先生になる為の勉強を続けることができなくなり、それでお菓子屋に入ったというわけです。
ところが、私は絵の勉強をしていましたから、お菓子でも、デコレーションの分野に非常に興味を持ち、その面で、すんなりと上達することができました。1952年、私が28歳の時に、ホワイトチョコレートで作った作品をコンクールに出品しまして、その時にそれを認めてくれた審査員の一人、スイスのコバ製菓学校の校長と出会ったというわけです。それから、彼の招きを受けて、その学校でデコレーションと砂糖細工の先生から始めたのです。
-この仕事をどう思いますか?
-個人的にはとてもいい仕事だと思っています。というのは、まず第一に創造的な仕事だからです。
作るという楽しみがあり、また、新しいものを創り出す可能性があります。それから、人々の生活の楽しみのひとつの作り手であり、提供者でありうるからです。つまり、毎日の食生活においてももちろんですが、パーティーだとか、誕生祝い、結婚式などを通しても、私たちは全ての家庭の喜びに参加できるのです。
また、この仕事を選ぶ若い人たちには、全世界を旅行するチャンスがその雇い主によって与えられるということも、一つの楽しみです。(国内外での研修勤務がプログラムに組み込まれていたのです。)それからもう一つ、自分で店を持てる可能性が大きいことがあげられます。ここフランスでは、作る男性と売る女性が必ず必要で、そのために商店業に従事する女性といっしょになって、店を持つことが多いということ、それは私たちの仕事の一つのメリットといってもいいかと思います。日本ではどういう仕組みになっているか存じませんが。
(つづく)
