おいしいお菓子を作るには(3)


                      



ではどうしたら、おいしさを分かる、おいしさを判断できる力を身につけることができるでしょうか。

それには味覚・嗅覚を育てる必要があります。
味覚・嗅覚は育てるものであり、育つものであるという認識が必要です。美術品を見る力は視力とは違います。音楽を聴く力は聴力とは異なります。味覚・嗅覚による判断力も同様です。それらは訓練によって感覚を育てることで得られるようになります。感覚を育てるということは持って生まれたそれら感覚器官を鋭敏にするということだけではなくて、むしろその感覚器官に携わる脳の領域を広げ育て、ブラッシュアップしていくことと考えられます。

そのためにはとにかく経験を増やすこと、それら感覚器官を意識的に刺激し続けていくことが求められます。骨董品を見る力を養うには、いいものをただただたくさん見ることだと言われます。絵画を見る力も同様だと思います。音楽を聴く耳を養うにもいい演奏をただただたくさん聞くしかないでしょう。味覚・嗅覚で言うならば、ただただ意識的に食べ続けていくしかありません。

色々なものをたくさん味わっていくしかありません。それも他のことを考えながらとか、ただ漫然と食べるのではなく、集中して意識的に味わうことです。
「量は質を凌駕する」という言葉があります。たくさんたくさん意識的に味わっていく内に次第にいいものを選びとる力ができていきます。いいものを選びとる力ができていけば、それによって味覚・嗅覚が育っていきます。味覚・嗅覚が育っていけば、いいものを選びとる力がさらに確かなものとなっていきます。そううやって好循環が生まれていきます。

そうした経験を積む時に忘れてはならないことは、「好みで判断しない」ということです。
好みは変わりますし、変えられます。好みは絶対的なものではありません。嫌いだったり食べられなかったりしたものが大好きになったりする経験は誰しもあることでしょう。自分の好き嫌いというものが厳としてあり、その時点の自分の好みに合うか合わないかだけで食べ物を味わっていては、味覚・嗅覚の発達はその時点でストップしたままです。自分の好みばかりに囚われていては味覚・嗅覚の発達はおぼつかないし、未だ知らないより大きな喜びの世界を知ることができないことになります。それはあまりにもったいないという気がします。
甘いものが苦手なら甘いものの良し悪しは分からないでしょう。しょっぱいものが嫌いなら、しょっぱいものの良し悪しは分からないでしょう。酸っぱいもの、苦いものでも同じことが言えます。匂いの強いチーズや果物が苦手なら、その良し悪しは分からないでしょう。

好みを排して、あるいは脇に置いておいて、ただ味わう、食べ物によって自分の味覚・嗅覚を育てていくという気持ちでただ味わうことです。見た目や情報や好みなど何物にもとらわれずに、今口の中にあるその食べ物に向き合って、その食べ物からのメッセージを受け取る経験を積むことによって味覚・嗅覚が育ち、おいしさを判断できる力が身についていきます。そうして、質のいいものをおいしいと思え、質の悪いものをおいしくないと思える味覚・嗅覚を育てていくことが何より肝要です。

食べ物の食べ方とか好き嫌いとか個人の勝手じゃないか?その通りだと思います。しかしながら、味覚・嗅覚が育っていなく質のいいものを選びとる力がなければ、質のいいものはどんどんなくなっていき、味わいの乏しいものばかりが大量に出回っていくことになります。質のいいものを選びたくても選べなくなってしまいます。質のいいものがなくなっていけば、味覚・嗅覚はさらに衰えていきます。味覚・嗅覚が衰えていけば……。悪循環は今現実のものとなっています。


「おいしいお菓子を作るには」、本物の材料を選び、出来上がったものを的確に判断できる味覚・嗅覚を育てることが必要です。質の悪い材料からおいしいお菓子が出来ることはあり得ません。材料さえ良ければ思っていたものと少々違ったものができたとしても、それなりにおいしく食べれるものです。作り方のノウハウとかテクニックなぞは本当に二の次なのです。ものつくりは結局のところ、ただひたすら作り続けるしかありません。作り続けているうちに、適切なレシピや作り方も選択でき、またテクニックも身についてくるようになるものです。

食材の命が持つ力こそがおいしさの元なのです。


おいしいお菓子を作るには(2)





「おいしさ」とは何か、についてもう少し考えてみましょう。

 「おいしさとは味覚だけではなく、視覚、触覚、聴覚、嗅覚の五感すべてで感じる総合的な感覚のことである。」とはよく言われます。いかにも誰もが納得しそうな説明です。確かにその通りなのでしょう。が、しかしこの説明がおいしいものを作ることに、また、ものそのものの質を良くすることに役立つでしょうか。ひとつひとつ考えてみましょう。 

視覚によるものでは、見た目においしそうということが重要だと言われますが、見た目においしそうだったものがおいしくなくてがっかりしたとか、あまりおいしそうに見えなかったがとてもおいしかったとかという経験は誰しもあるでしょう。果物や野菜が鮮やかなきれいな色だからといって、その内実がおいしいものだとは限りません。お菓子がその色と形が素晴らしいものであっても、味がよくないということはいくらでもあります。現今はむしろそういうもののほうが多いとさえ言えます。

見た目が良くてもおいしくないものはあるし、見た目が悪くてもおいしいものはあります。見た目がおいしさを保証はしないのです。 

触覚によるものではどうでしょう。固いか柔らかいか、さくさくしているか、しっとりしているかなどの触感はもののおいしさを表すものでしょうか。牛肉のステーキなど、固くてもかむごとに肉汁の味が押しよせるような美味しい肉もあれば、柔らかくても脂っぽいだけの味わいに乏しい肉もあります。クッキーがさくさくしていてもおいしくないものはあるし、ソフトな触感のクッキーでもおいしいものはあるし、その逆もあります。スポンジケーキがしっとりしているか乾いた食感であるかはそのケーキのおいしさを決定づけるものではありません。

聴覚によるものではさらにはっきりしています。カリカリ、パリパリなどその音が心地よくてもおいしくないものはあります。 

では一方で、味覚と嗅覚によるものはどうでしょう。

はじめに断っておきますが、物を口の中に入れて味わう時には、私たちはそれを味覚による味と嗅覚による香りとに分けて別々に味わうことは普通しません。それはいつも同時に味わっています。私たちが「いい味だ」と思う時は常に「いい匂いだ」という意味を含んでいます。なので、ここでは味覚と嗅覚による味わいは一緒にして考えていくことにします。 

味覚・嗅覚によるもの、すなわち味と香りが良くておいしくないものはないし、味と香りが悪くておいしいものもあり得ません。味覚・嗅覚が正常であれば、目をおおい、耳をふさいでもおいしさは味わえます。そこが他の感覚によるものとは決定的に違います。風邪をひいた時のように味覚・嗅覚に障害が出た時、視覚、聴覚、触覚だけでおいしさを味わうことができるでしょうか?その逆に、視聴覚に障害があったら食べ物のおいしさを分からないと言えるでしょうか?視聴覚に障害があればむしろ味覚・嗅覚は健常な人より鋭敏になります。人の感覚は一部に不足があれば他の感覚でそれを補おうとするものだからです。 

味覚・嗅覚以外の他の感覚によるものは言わば枝葉であり、それに付随するものに過ぎません。味覚・嗅覚だけではない、五感すべてが大事であるという説明は、あくまでも味覚・嗅覚によるものが良しという前提にたっての説明でしかありません。その前提が、それこそが問題の中心、肝腎要なのです。

昨今は見た目と食感にこだわるあまり、肝腎の味覚・嗅覚をおろそかにし、その感覚を衰えさせているように思えます。味覚・嗅覚によるものだけが「おいしさ」を決定づける根本のものであり、そこを棚に上げておいて、見た目が大事も何もありません。 

「おいしさ」とは食べ物の質のことであり、その本質は視覚・触覚・聴覚によっては判断できません。それは味覚・嗅覚によってのみ判断されるものと言うことが出来ます。

ではどうしたら、「おいしさを分かる」、おいしさを判断できる力を身につけることができるでしょうか。

つづく。



おいしいお菓子を作るには(1)




「おいしいお菓子を作るにはどうしたらいいですか?何が必要ですか?」

そういう質問をこれまでたくさん受けてきました。お菓子に限らず、料理も含め、口にするものすべてにおいて、おいしいものを作るには、おいしさを作り出すためには何が必要なのか、何が大事なのかを考えてみましょう。

まず、何よりも大事なことは「おいしさを分かる」ということです。「あの人は味の分かる人だ」などという言い方を耳にすることがありますが、つまりそれは「おいしさが分かる」ということです。おいしさとは何か、何がおいしいか、何をもっておいしいとするのか、これが分からなければおいしいものを作ることは出来ません。作り方のノウハウや技術(テクニック)は二の次です。おいしさを理解せずにテクニックをいくら習熟させたところで、それはおいしくないものを作るテクニックをせっせと磨くだけのことにもなりかねません。

おいしいものを作るためには、まず良質な食材を選ばなければなりません。お菓子作りで言うなら、基本となる食材である、粉やバターや砂糖、卵、それからフルーツやナッツなど、どれが良質なものなのかを的確に判断し、選び取る必要があります。質の悪い材料から、おいしいお菓子ができることはあり得ませんから。

そうして良質な食材を選んだら、その材料に適切な手と時間をかけて、望んだおいしさを作り上げていくわけです。その時に最も必要なのが、このおいしさの理解、判断力、そして出来上がるものに対する確かな味(おいしさ)のイメージなのです。そうして出来上がったものに対して、これがいい、これでいいという確かな判断ができなければ、「おいしさ」そのものが分からない訳だから、おいしいものを作ることはできません。行く先が定まっていなければそこへ到達することはできない道理です。

「おいしさ」って何?

「おいしさなんて、人それぞれ好みがあるんだから、そんなもの決められないだろう?好きなものはおいしいものだし、嫌いなものはおいしくないものだろう?」

そうですね、多くの人は自分の好みで、自分の口に合うかどうかでおいしいかどうかを判断しています。では、自分かあるいは誰か特定の人の好みに合うことだけを目指してものを作れば、おいしいものが出来るのでしょうか?それぞれの食べ物には良し悪しはない、すべては人の好みが決めることだと言い切っていいのでしょうか?

人の好みはほんとうに様々です。たとえば、マドレーヌというお菓子があります。このお菓子を作って二人の人に食べさせたら、一人は甘すぎると言い、もう一人は丁度いい甘さだと言います。人の好みは本当に様々です。甘さの好みも感じ方も人によって違います。この二人を同時に満足させることは不可能なのです。さらに同じ人でも日によって時間帯によって感じ方が違うこともあります。同じものを食べても、ある日は甘すぎると感じ、別の日にはちょうどいい甘さだと感じることもあります。同じ人の好みも日によって異なることがあるということです。

好みに合わせて作ることができるのは、その人の食べ物の好みや生活習慣までも充分に知り尽くした、ある特定のひとり(自分自身を含めて)のためにだけということになります。その同じお菓子が別の人にとってもおいしいと思ってもらえる保証など全くありません。

おいしさは食べるほうの感覚の問題であるという考え方には、作る人の視点が欠けているように思えます。受け取る人、すなわち食べる人のほうの好みをいくら考えても、それでおいしいものが作れるようにはならないでしょう。

人の好みの傾向などを生理学的に、あるいは心理学的に研究することは意味のあることでしょう。たとえば食べ物でビジネスをしようとする場合などはそれは大いに役立つことでしょう。しかしそれが食べ物そのものの内容を、その質を良くすることにつながるとは思えません。人の好みの問題と食べ物そのものの質とは別のことだと考えるべきです。

では、おいしいものを作るには、いったいどうしたらいいのでしょう?

お菓子における砂糖の役割は甘さだけではありません。お菓子の構造を支えたり、他の材料の風味を引き出したり、水分をかかえこんでしっとり感を保ったり、、オーブンでの火の通りをよくしたり、ふくらみを支えて柔らかさを保ったり、かびや細菌の繁殖をおさえたり、などなど、たくさんの大きな役割があります。そのために、適切な配合というものが長い年月をかけて、また数えきれないほど多くの人々の試行錯誤を経て作られてきたのです。好みに合わないからといって安易に増やしたり減らしたり出来るものではないのです。

良質な食材を選ぶのに、そしてふさわしい分量や調理法を好みで選んでは間違ってしまいます。むしろ自分自身の好みにも誰かの好みにも左右されずに、それらを選びとる能力こそ求められるものです。

作り手にできることは、できる限り良質な材料を選び、適切な配合で、適切な手と時間をかけて、それぞれの材料の風味を生かし、マドレーヌならマドレーヌというお菓子として最良のものになるよう作りあげることだけです。そこに人の好みの入る余地はありません。そこに最も必要なのは好みを排して「おいしさ」を、すなわちそのものの質を判断できる力です。各材料に対して、そして出来上がったものに対して、これがいい、これでいいと的確に判断できる力です。その力の差がおいしいものを作れる、作れないの決定的な差となります。その力を身につけるにはまず第一段階として「おいしさを分かる」ことが何よりも大事なことなのです。

何も難しいことはありません。食べ物のおいしさとは個人的な好みとは関りなく有るものだということ、それは食べ物そのものの質(品質)に関わることであるということを理解しさえすればいいのですから。


「おいしさ」について、もう少し考えてみようと思います。

つづく。



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おいしさは時間がつくる




シェソア教室の生徒さんが先日飛騨高山にお店をオープンしました。パイとキッシュのお店です。

高山に伺った折に、会食中に美味しさとは何か、美味しいものを作るにはどうしたらいいかという話になりました。

おいしさって何?

食材の持つ成分から考えたり、あるいは人体の生理から考えたり、色んな切り口で考えることができますが、ひとつには、おいしさとは時間が作るものであるという話をしました。そうしたら、その言葉がずっと頭にあると言っておられました。 

時間をかけたから、時間をかけさえすればおいしいものが出来るとは言えませんが、かけるべき適切な時間をかけなければ、その時間を省いてはおいしいものはできないということは確かです。


まず、食材に関してです。

肉、野菜、果物、パン、チーズ、ワイン、あるいは調味料などの加工品などなど、おいしい食材ができるのには時間がかります。手間ひまを省いたもの、促成に栽培されたもの、促成に飼育されたものはやっぱりおいしくありません。料理にしても時間をかけずささっとできて、かつおいしいものもありますが、それはやはり元の食材が丁寧に時間をかけて作られたものである時だけのように思います。

促成栽培で味も香りも乏しく、水っぽいだけのサラダ菜やトマト、キュウリに市販のドレッシングをかけただけのサラダがおいしいものになることなどまずありません。丁寧に時間をかけて作られた野菜なら、塩をかけるだけでもおいしく食べられます。 

肉の煮込みなど時間がかかる料理にしても、圧力鍋、電子レンジなど使っても、確かに時間は短縮できても味をおいしくすることはないと思います。風味を保ったまま固い肉が柔らかくなり、他の味がしみこんでおいしくなるには時間が必要なのです。

パンやワインなど発酵食品にいたっては、時間がすなわちおいしさであるといってもいいくらいです。 

かけるべき時間を短縮し効率優先で作られたものは風味が希薄です。希薄な味をごまかすためには、塩、砂糖、油脂、発酵調味料などをたっぷり使って、味付けで食べさせることになります。それがまさに食品産業の工業的なものつくりです。ほんもののおいしさとは遠く離れたものでしかありません。 

お菓子作りも全く同じです。効率優先で作られた食材を使い、必要な工程を省いて短時間に作ってもおいしいお菓子ができることはありえません。

ものつくりは人のほうの都合ではなく、物の都合に人が合わせる、物のほうが育つ時間を作ってあげなければならない、その時間を省くことはできないと思うのです。 


それから次に作る人のほうに関してです。

おいしいものを作るためには、まず美味しい食材を選び、そしてこれから作るものの味を的確にイメージし、またできたものを判断することができる味覚を育てなければなりません。そしてそれを実現させるための技量を身につけなければなりません。 

味覚を育てるのには時間がかかります。小手先のテクニックを身につけるだけなら集中的に練習することもできますし、見かけの色や形を整えるだけのテクニックならたいした時間はかかりませんが、食材を味わい、できたものを味わって的確に判断できる味覚を育てていくにはとてつもなく長い時間がかかります。

そして自分の手でおいしいものを作り出す技量を身につけるのにも長い時間が必要です。ものつくりは結局のところ絶え間なくただひたすら作り続けるしかないからです。作っては食べ、食べては作り、失敗もしながら、食材の変化や環境の変化に合わせ、細かな調整と工夫をしながら、長い時間をかけて身につけていくしかないのです。その時間を省いては、おいしさを作り出す力はできません。 

無駄な手間ひまは省かなければならないかもしれませんが(無駄も結構貴重なことがありますが)、時間短縮、効率化、省力化といったことは、少なくとも料理やお菓子作りにとってはほとんどの場合その品質を(味を)損ねることにつながる、おいしさとは時間が作り出すもの、時間こそが大事なのだ、と私は思います。

 

冒頭の高山のお店はパイとキッシュのお店としてオープンされました。そのパイ生地をここまで手作りに徹して作られる方はそうはないと思います。量的な問題から商売につなげることがなかなか困難だと思われるからです。そのことに果敢に挑戦しておられます。エールを送りたいと思います。

お近くの方、飛騨高山に立ち寄られる方、是非訪ねてみてください。素敵なお店です。Elleys Kitchen



フランスのバター

 


久しぶりにフランスから輸入されているバターを使ってみました。

わかってはいたことですが、日本のバターに比べてそのあまりの違いに感を新たにしました。違いは何といってもその乳化力です。

基本的なサブレ生地をシュガーバッター法で作ってみました。バターに砂糖を混ぜ、次に卵を混ぜて乳化させますが、簡単にあっという間に乳化して混ざってしまうのです。しかもしっかりと強くつながる感じがあるのです。温度調節もおおざっぱに、卵も4回に分けて加えただけにもかかわらずです。

混ぜていて楽しくなります。日本のバターで作る時はいささかの苦痛と闘いながら混ぜなければならないのとはまるで違います。

日本のバターを使った場合では、材料の温度に細かく気を配り、卵はほんの少しずつ、混ぜかたにも細心の注意を払って混ぜなければならないし、それでも分離することはしばしばあるし、分離しなくてもなんとも頼りないつながりかたを感じることがほとんどなのです。

違いは乳化力だけではありません。食べてみた時、日本のバターは妙に脂っぽい感じがあるのに比べて、フランスのバターは脂っぽさを感じません。バターだけを食べてみてもそうですし、サブレ生地を焼いても脂っぽさをまったく感じなく、さくさくとした軽やかな出来上がりとなりました。

ブリオシュも作ってみました。

ブリオシュ生地はパン生地の一種ですが、バターがたくさん入るのが特徴です。そのバターが日本のバターだと生地の中にとても入りにくいのです。

混ざりにくいので結果こね過ぎになりがちです。グルテンが過度に出過ぎて、歯切れも口どけも悪くなります。手ごねだと手の温度でバターがすぐに溶けそうになります。出来上がった生地を手でさわるだけでもすぐに脂が浮いてきて、ふくらみも焼け方も悪くなるし、焼き上がりのブリオシュもなんとも脂っぽい感じになりがちなのです。

これがフランスのバターだと「あれーっ!」と叫んだくらい、簡単にバターが入ってしまったのです。

焼き上がったブリオシュは最高のおいしさでした。

サブレ生地を作りながら、そしてブリオシュ生地をつくりながらも「これじゃー!」と叫んでしまいました。

「これじゃー、何もかもが違うじゃないか!」と思ったのです。

日本料理は水の料理、中華料理は油の料理、フランス料理はバターの料理と言われます。フランス料理もフランス菓子もバターを使わないものはたくさんあります。しかし、バターを使う、バターで調理をする、バターで味をつける、バターはその根幹をなす最も重要な材料のひとつであり、他の料理に比べてバターを使うのがお菓子も含めたフランス料理の最も大きな特徴のひとつなのです。バターをどう使いこなすかが、その作り方の基本と言えます。

そのバターがこれだけ違うのではすべてが違うじゃないか、すべてが似て非なるものになってしまうじゃないか。ほんもののおいしさなんていつまでも分からないままじゃないか。

水の料理と言われる日本料理を、例えばご飯を炊く、ダシをとる、お茶をいれる、あるいは日本酒を醸造する、そばを打つ、豆腐を作るといったことを、石灰分の多い硬水で作るのと同じことになってしまうのではないか。

あらためてそう感じました。

日本のバターがフランスのバターのレベルになることを願うばかりです。


(追記)

今回使ったバターは市販の輸入品の中では比較的安価なもので、風味は弱いですが、その乳化力はさすがと思わせるものでした。なお、風味が弱く感じられたのは、パッケージ、温度管理、保存期間などの条件によって本来の風味が衰えていたせいかもしれません。


りんごがあった!


 お菓子に使えるりんごがありました!


「ブリーズ」というニュージーランドから輸入されているりんごです。

ニュージーランドのりんごはほかにも、ジャズ、ロイヤルガラ、プリンスなどいくつもの種類が輸入販売されていますが、このブリーズはお菓子に使うのに適しています。
4月から6月頃に日本で出回っているということです。
これまで、このブログでも、その前のヤフーのブログでも何度も訴えてきましたように、日本ではお菓子に使うのに適したりんごはほとんどないと、なかばあきらめていました。
りんごの話 りんごは小さいほうがおいしい タルトタタン
しかし、このブリーズというりんごを煮たり焼いたりしてみたら、なかなかいい感じなのです。甘味は充分、酸味も少しあり、香りはさほど強くはないのですが、火を通してもちゃんと残ります。
何よりも果肉がきめ細かく充実していて、煮ても焼いても身縮みが少なく、薄切りでオーブンで焼いても皮だけになってしまうようなことが少なく、これはお菓子に使うのにふさわしいりんごだと言えます。
また、生で食べても、繊維が強すぎず、さくさくと小気味よく食べれます。
お菓子には保存しておいて少し柔らかくなってから使うのがいいようです。
香りがもう少し強くあってくれれば申し分ないのですが、それでも今日本で手に入るりんごの中では、煮たり焼いたりしてお菓子に使うりんごとしては最適なものではないかと思えます。
(遠くからやってきていますし、ニュージーランドではもっとおいしいものなのかもしれません。)



りんごのクランブルタルトを作ってみました。生のりんごを乗せて焼いたにもかかわらず、空焼きしていない生地が湿気ることもなく焼け、香りも充分に残り、上々の出来。久しぶりにおいしいりんごのタルトを堪能することができました!

やっと見つけて喜んだのもつかの間、もうシーズンが終わってしまうようです。残念ですが、また来年の楽しみとすることにします。


火を通して使うりんご、お菓子作りに適したりんごがこの日本でも作られるようになることを切に切に望みます。

※このブリーズりんごですが、大変残念ながら、翌年(2023年)のものは出来がいいものではありませんでした。  (2023.7.5)

パウンドケーキが一番難しい

 パウンドケーキは簡単だと思われています。材料はシンプルだし、バター、砂糖、卵、粉をただ順番に混ぜていくだけだし。お菓子作り初心の人がまず作ってみようと思うものがこのパウンドケーキのようです。

でも、実はパウンドケーキが最も難しいお菓子の一つなのです。

何が難しいって、乳化です。このただ順に混ぜていくだけの方法はシュガーバッター法と呼ばれます。シュガーバッター法によるパウンドケーキの作り方では、乳化がすべてといっていいくらい、乳化が決め手なのです。乳化がうまくいかなければおいしいものにはなりえません。

この乳化が難しいのです。バターと砂糖を混ぜたところに卵を加えて混ぜ、分離しないよう乳化させるのがとにかく難しいのです。シンプルなだけに融通もきかないし、途中修正もできません。 

そもそも水と油は混ざりません。卵は水分が多く、バターは脂肪分がほとんどです。それをいわば騙し騙し混ぜていくのだから簡単ではないのです。

乳化させるのが難しい原因は多くは混ぜ方によるものと思われています。えーっ、作り方・技術のせいじゃないの?そうなんです。それは2番目の原因です。
1番目の原因は材料の品質によるものです。バターと卵の品質の問題です。

まずバターです。
これまで手に入って試したバターのほとんどは乳化力がとてもよくありません。その理由ははっきりしません。
バターには約2割の水分が約8割の脂肪分と乳化した状態で混ざっていますが、そのバターの乳化の状態がそもそもあまりよくないのではないかと考えられます。あるいは、バターの脂肪分はたくさんの種類の脂肪酸で構成されていますが、その脂肪酸の構成バランスがよくないのではないかとも考えられます。

次に卵です。
今普通に安価に買える卵では、やはり乳化がとても難しいのです。
卵の水分含有量が多すぎるのかもしれません。あるいは、卵黄の中にはレシチンという乳化剤の働きをする成分が含まれていますが、そのレシチンの働きが弱いのかもしれません。
このようなバターと卵では誰がやっても、どんなに完璧な混ぜ方をしたとしても、乳化は困難です。分離させてしまう確率は高いものです。 

では、どうしたらいいのか? 

もう何十年も前、フランスから戻ってきてしばらく経った頃のことです。パウンドケーキやアーモンドクリームなど、バターに等量の卵を混ぜるものがことごとく分離をしてしまい、途方に暮れたことがあります。

フランスではそんな経験がなかったからです。混ぜ方など特に気にすることもなく、分離などすることもなく、簡単に混ぜられていたからです。

いったいどうしたことか? 

乳化とはそもそも何か?そこから出発して混ぜ方を工夫してみました。(混ぜ方の詳細は旧記事をご覧ください。)でも混ぜ方を完璧にしても、それでも分離させてしまうことはままあります。
混ぜ方は大事ですが、たくさんの試作をしていく中で、フランス産のバターを使い、卵の品質のいいものを選んだら、比較的簡単に乳化させられることがわかりました。やはり材料が大事なのです。
それにしてもこれでは随分高くつくものになってしまいます。 

もう一つの方法は作り方を変えてみることです。

パウンドケーキの作り方には、この、順にまぜていくだけのシュガーバッター法だけでなく、共立て法や別立て法もあります。

共立て法は卵と砂糖を泡立ててから粉と溶かしバターを混ぜる作り方をします。これは失敗の少ない方法で、お菓子作り初心の人には一番のおすすめです。
別立て法はいくつかありますが、卵白を泡立てて混ぜる作り方をします。これは卵白の泡立て方と混ぜ方にやや難度の高い方法となります。
これらの作り方なら、乳化は問題とならず、明らかな失敗となることは少なくなるでしょう。